習いごとのこと、読書のこと

先日の日記ではご心配おかけしました。

同じように悩んでいたりするマダム達からメールを頂いて、ありがたく思ってます。
誰でも子育てには悩んでるんですよね。
私の子育てはうまくいってる、なんていう方が少数派なわけで。でも、それぞれのマダムが自分の子育ての問題点に気付いていて、そこから逃げたり、放置しないで向き合っているというのが、やはり。。。と思いました。
長いおつき合いの中で、ずっとやりとりが続いているマダム達は、篩を通して残ったかのようにすばらしい方達です。
オンラインでも駄目な人とそうでない人は、オフラインの話をしても、同じだわ、と。キチっとした人はオンオフ関係ないと。同時に駄目な人はオンオフ関係なく駄目だわ、と。


小緑は、あれから私が怒りもせず、落ち込んでいるのを見てさすがに堪えたのか、しきりにお姉さんになるからとがんばっています。本当は、親が子供にそういう形でストレスを与えてはいけないんですよね。。。子供は逃げ場がないんですから、拠り所であるはずの親が迷ってたりしては不安になってしまう。でもときには親も一人の人間であるところを見せてしまった方がいいのかも、と思うこともあります。

毎日、一人で風呂に入る練習をしたり、甘ったれな自分を克服しようとは思っているようです。いつまで続くかは別として。。。。







話変わって。
家にいると、さまざまな電話がかかってきます。
どこから情報を得たのか、圧倒的に多いのが、
「○○勉強法」などの教育システムの勧誘。

お定まりのセールストーク、「お母さまのお宅では、どんな習い事、お子さまにさせてあげていますか?」

最初に反論くらうの覚悟で宣言。

私は「習い事反対派」です。

それがピアノであろうが、英語であろうが、ク○ンであろうが。

ずっとというわけではありません。小学校三年生くらいになれば、友達と一緒にいきたい、これを習得したい、という意欲みたいなのが出てくるので、それをとめる気はありません。(幼少期に、親が無理矢理、「ねえ、○○ちゃん、ピアノ習いたい?そう習いたいのね、じゃあ行きましょうか!」というのも誘導尋問なので認めません。笑)

でもまだ幼い幼稚園の頃から、もしくは小学校に入ったから塾へ、と習い事に、塾に必死になる親御さんには感心しません。

要は「本人の意志がしっかりしないうちに親の都合でいかせる塾や習い事」が嫌なんです。

いい面もあると思います。
一人でそういう場に行かせることで、少なくとも小緑みたいなタイプは、もうちょっと「しっかり」したかもしれません。もじもじが克服されていたかもしれません。


でも本当に習い事に行かせてるお母さん達の心境ってソレじゃないでしょう。

見栄なんだもの、結局。

人より先に技能を身につけさせて自慢したい(表向きは「子供に自信をつけさせてあげたいから。」それも本音だとは思うけど)。

それと、面倒だから。

自分で教えられないからプロに頼む。
その間、時間も空くし。

まあそれも一理あるでしょう。
別に批判しません(してるけど)。
気持ちはわかるから。

でも、「お金を払って他人にゆだねる」のは簡単であり、「子育ての一部放棄」だと思ってしまうことだけは譲れません。


そんな深く考えてなかったわ〜。みんなやってるから。


大半の人がそうだと思います。
本当にいいお母さんだと思います。
子供思いで。
でも、自分がやってることの本音を隠すのだけはやめて欲しいのです。
習い事にいかせるのは各家庭の都合、それを「しない家」に押しつけないで欲しいわ、と。習い事をすることの必要性を、うさんくさい正論で押しつけないので欲しいのです。

子供をつくるつくらない、子供をたくさん産む産まない、習い事をさせるさせない、どっちの意見も理由は千差万別。
でも嘘やごまかしをいうのだけはやめていただきたい、と。

セールスのために電話をかける人はお仕事ですから、そんな人相手には怒ったりしません。でもそんなセールストークを平気で吐かせる世の中ってどうなのよ?

「みなさんこうしていらっしゃいますよ〜」の言葉に流されるようでどうするの。

ちょっとは自分の脳みそ使えや!不安になる前に!
(ああ〜反感かいそう。笑)





それと読み聞かせの続き。

色んな人の話を聞いた結果。
読み聞かせ反対派のかあちゃん達がどういう連中(連中よばわり)か、わかった。そしてなぜ反対するのかも。

要はね、「自分が家庭の中でやってこなかった人たち」なのよ。’(逆にやってきた人はかならず「賛成派」であり、子供達もしっかり聞く力を持っている)

読み聞かせを小さい頃から体感してる子は、読んでもらうことも楽しめるし、同時に「自分で読む楽しさ」も知ってるの。

逆に、公共の場所でしか読み聞かせの体験がない子(普段、家庭で読んでもらうという体験が少ない子)は、「自分で読む楽しさ」を知らない。読んでもらうのが楽だから読み聞かせしてもらう。

そういうことでした。

だから決まって親はいう。「読み聞かせなんて困る。本は自分で読まないものと思ってしまうから」

先生までこういう人いるからね。いったい教師の人格教育はどうなってるのかと思ってしまう。

小緑の自慢をするわけではないけれど、一つのテストケースとして語らせてもらう。

一才半のときに断乳を決行し、「寝入るための儀式」である、「おっぱい」の代わりに「読み聞かせ」を始めたのが緑家の読み聞かせの歴史のはじまりです。

王子と交代で、寝付きのよくない小緑を寝かし付けるために、毎晩三冊の絵本を持ってふとんに入りました。ときにそれは絵本に限らず、マイク付きのうたえほん、であったり。マイク持って30曲熱唱の末、やっと寝入るという日もありました(涙なしには語れん。笑)

それから絵本がいつのまにか「おはなしのろうそく」になり。「世界の民話」になり(物語という筋のあるものが楽しめるようになっていくのね)、ついに「ハリポタ」になる日まで。来る日も来る日も「読み聞かせ」て来ました。

いつからだろう。
前の晩に読んだ話の続きが読みたいから、と小緑が自分で昼間に読んでしまうことが増えたのは。
文字を無理やりに教えたつもりもないのに、本を読みたいばっかりに一生懸命に「あいうえお」を覚えていたのは幼稚園年中の頃だったか。

歌詞カードを見て歌を歌いたいばっかりに今度は漢字まで覚え出したのは年長の頃。(ルビないからね)

要は、その世界の楽しさを知っていれば、あとはもう本人の意志で本好きになるのも知識欲旺盛にもなるのも自動だってことをつたえたいのです。子供にとっては、勉強だって、知らない世界をのぞくために必要な、遊びの一環なんだってこと。

どうか書店で「字の多い本選びなさいよ!もう大きいんだから!!そんな絵本なんて赤ちゃんのものでしょう!!」
と叱責する前に、自分が幼い頃に読んだ楽しかった本をそっと手にとって、寝る前に読んであげて下さい。読書の楽しさを教えずに、勉強のために「読書好き」にするなんて悲しすぎます。書店でのそんな光景を見るたびに、「ああ。。そこにあるソレ、それ面白いのにーーーー!!!なんでそんな本も進めてやんないでそんな糞つまらん『推薦図書』なんて手にとってんだよ、バカバカバカ!!」と叫ばずにいられません。


最近、読んでやる本が長いものになりつつあったのと、私自身が急に読みたくなった本などを読んでやるため、乱読状態にあった「読み聞かせ」(自分の読書といっしょくた)。
すっかり続きを読むのを忘れていた「奇岩城」を読んでやろうとしたら、けろっとした顔でいわれました。

「あ、それ読んじゃった。面白かったよ〜。英語のとこはわかんなかったけど。あ、でもそうか!母音ってわかったから、わかるかも!!」(奇岩城/アルセーヌルパン=には、謎ときにアルファベットの知識が必要な部分があります)

最近、「名前をサインする」ことに執心だった小緑はローマ字をうるさく聞いていたのです。(PCゴシに適当ぶっこいて返事していた)その中で、あんまりくどく同じことを聞いてくる(うるさい)ので母音の概念を教えてやったのね。日本語はすべて「あいうえお」でなりたっていると。それがまさに彼女の中で結びついた瞬間を見ました。

いろんな面で成長を垣間みて、感心したり、面白いな〜と思う一幕でありました。

がしかし。
奇岩城のあれは、フランス語、の謎解きなのでハードル高いです。数分ながめたおした後、
「あ〜やっぱりわかんない!難しい!!」と匙なげていました。
それがわかるようになるのは何年後なんだろう。
きっとわかったときには凄く嬉しいだろうなあ。
小さい頃にわからなかった部分が急にわかった瞬間っていうがあるのも読書の楽しみなんだよね〜。
そういう経験ありません?
対象年齢より高い本を勧めること自体は全然おすすめしませんが、大きくなってから読み返して新鮮になれるのもまた楽しいんですよね。私には7つも年上の兄がいたので、いつも「対象年齢の高い本」が本棚に並んでいて、知らぬ間に手にとっていた私にはそういうことがとても多かったのです。
だから本棚にはいつも「未読の本」が山盛りあってほしい。



まあ、あまり読書を楽しみすぎると、大人になってから妄想好きな変態おばさんになってしまう危険性も少なからずあるのでほどほどに(周囲のマダムを見回す)。